今、新しい人間の最後の迎え方について日本社会では孤独死が取り上げられています。

その中で、名前もわからない故人を「行旅死亡人」(こうりょしぼうにん)と呼ばれています。身元も何もわからない状態では無縁仏になり埋葬されます。

これからの日本、超高齢化社会のピークへ向けて見守りなどの取り組みが行われておりますが否定的に申し上げますと見守り活動をしても「ゼロ」にはならないことを理解していただきたいと思います。

なぜならば、孤独死は集団での活動を嫌い自分らしくあるための個性が強い方が新しい最後の迎え方としてスタンダードになっていく時代でもあるのです。

私たち、遺品整理人から見る限り孤独死を問題にする団体や自治会がありますが一番の問題は「問題にする方がいちばん問題」なのです。

人間はこの世に生を受け、最後を迎えることは自然のことではありますが誰でも人生の最後に「逝かないで」と家族に言われながら終わることができない事情の方もいらっしゃるのです。そこでその事情を考えないで孤独死を問題にする方は自分が裕福な育ちをしてきたからに他なりません。

さまざまな家族が存在しそれぞれの家庭の事情がある。そこへプライバシーを無視して問題にする行為というのは浅はかな考え方なのではないでしょうか。

では、自殺者を含め孤独死が2009年、年間3万2千人もの死亡者になってしまったかをまとめていきたいと思います。

社会が中途半端に豊かになったので、以前は頼らざるを得なかった家族、地縁血縁、職業上のつながりといったものに関与しなくても、一応生きていけるようになった。

家族を含めた社会とかかわりあ合って生きることは、いろいろな面で我慢を強いられることでもあります。結婚はその好例です。一人で気ままに生きることは、一見自由ですが、いざ困った時に社会とのかかわりを急に求めても、虫が良すぎるわけです。孤独の晩年を迎えて誰にも看取られることなく死んでいく、それはその人自身の選んだ生き方でもあります。

結婚せずに一人暮らしを選んだ方がおりますが、一人で死んでいくことをそれほど恐れていない人もいます。最期を見届けてくれる人がいようがいまいが、人は一人で旅立つことに変わりありません。その点からは、孤独死がそんなに悪いことなのかということなのでしょうか。

なぜ、孤独になるのか。孤独死が起こるのかを考えてみると、何が必要かは出てくるでしょう。
孤独になる原因として、横との繋がりがなくなったのではないかということと、核家族が進んできたことがあげられると思います。

横との繋がりとは、近所付き合いのことです。
まず、横との繋がりがなくなったというのは、「自立=ひとりでなんでも出来る。」という考えがあると思うからです。そして、個を主張するがために、集団での行動が煩わしくなったのではないかとも思えるのです。また、「ひとりでなんでも出来る」という幻想を見ている事に気づくかどうかです。普段の生活なら、「ひとりでなんでも出来る」と思いますが、病気になったとき、「全く何もできない」現実を知ることになります。特に一人暮らしの方は痛感すると思います。
次に、核家族がなぜという意見を持つ方もいると思いますが核家族では祖父、祖母と違う家庭で生活をすることを意味します。つまり、祖父、祖母が独りになったとき、核家族の人が独りになった祖父、祖母を家に呼び、三世帯住宅に出来るかどうかです。呼べない、呼ばないというのは、そのままにしておくということになり祖父、もしくは祖母を独りで生活させることになります。
では、必要なことは何か。それは、人との繋がりをもつこと。そして、繋がりを築くために人に頼ることであると思います。ここでの人に頼るというのは、自分の全てを人に預けるという意味ではありません。自分で出来る事はもちろん自分でしなければなりません。ただ、自分一人の力でどうしようもないときに、協力を求めるということです。その事が、繋がりをもつことになるはずです。
人間というのは、素晴らしい能力をもつ動物です。しかし、産まれて死ぬまで、たったひとりで生きていくのは無理です。言葉という能力を持つ人間だからこそ、声をかけ合い、協力しあって生きていくべきではないかと思います。

人間が薄っぺらくなったと言う事でしょう。家族の為に身を削る、我慢をする、努力をする、それでも伴侶や子供を、家族を持つことを幸せと思う。

自分を産み育ててくれた両親を大事に思う、恩を返したいと思う、心配をする。

当たり前の事を、義務と感じる事が間違いでしょう?当たり前、やって当然の事を、遣らなくてはイケない義務と考える思考がおかしいですよ。

これが、日本の礼儀や道徳が損なわれた原因だと思ってます。

当たり前な事を疑い、慣習や古いものを、変える事こそを良とする、今の感覚に歪さを感じますね。

何から何まで保守が良いとは思わないが、我欲に歪んだ情報に流されてないか。

注意や指示をされた時に、従うよりもまず逆らう(頭の中だけであっても)、そんな愚痴の多い人が多くなった。
人間は当たり前と感じる行動にはストレスを余り感じないが、義務とかの押し付けられた事にはストレスを感じ反抗する。

 

戦後日本が選択してきた社会の姿でもあると思います。
はじまりを意識することなく、構造化も曖昧なまま、責任、義務の観念と対置しない根のない自由、個ということを問い、深めることのないままに、増殖した個人主義。
それら多数の事象が折り重なってきた結果の現在でありそしてお手本となってきた外国の行き詰まりが見えたことによるさらなる不安感が孤独死への注目と「無縁社会」なる命名を生んでいるのではないかと思います。

これらを問題としてとらえ、対処していく方法を考えようと思うのであれば、新しい公共のかたちを模索せねばならないでしょう。
回顧主義的に昔の絆を夢見なつかしむのはファンタジックにすぎず一過性、箱庭的現実の解決には結び付きません。
命の尊さや人間の尊厳が高みにおかれるのではなくむしろ低い当たり前として見られる基底になる世界、そうした世界にあって、新しいツールや価値観とも相反することのない、柔軟な公共。
身近な他者への不寛容が目立つ近年ですがそこを寛容に変えることが求められてもいるでしょう。
多数によって決まるのが倫理ではないし次々と心の穴を埋めるべく消費してきたもの、集め過ぎた価値観を捨てていく必要もあると思います。

・大都市への人口集中
・経済の停滞
・個人主義
・心の拠り所がない

この辺が原因かなあ、と思います。
一気に解決するのは難しいですね。

地方の若者は大都会に出てきて、年老いた両親を田舎に残してきている。

今の収入は田舎ではまず得られないから戻れないし、家も大都会で買った。

生活、ローン、子供の教育費、老後など大変だなぁと思っているうちに景気は上向かず、収入も増えないどころか減っている。
そうすると、申し訳ないけど田舎の両親まで手が回らない。

今の生活を楽しみたいから、子供はつくらない。
結婚もしない。結婚できない。
年をとって慌てても手遅れ。

信仰心のようなものがあれば救われるのかもしれないけど、日本人のうちでそのような心を持っている人は稀。

遠回りかもしれませんが、田舎の魅力を再構築するところから始めたらどうでしょう。

地方に財源も権限も移譲する。
税率を大幅にカットして企業をたくさん誘致する地方も出てくるでしょう。それはつまり雇用を地方に生むことになる。
アメリカの有名企業の多くが田舎にあるのと同じ状況を作る。
大都会にわざわざ出る人も減ってくる、田舎に戻って両親と一緒に住む人も多く現れるでしょう。
子供の頃、仲の良かった友達と再会なんてこともあるのでは。

無縁社会なんて、20年前には聞かなかったことですが、考えてみれば20年前は田舎もすごく活気があったし、経済も絶好調だった。
心の拠り所はまずは家族に求めるべきでしょうし個人主義は別に間違ったことではないでしょうから田舎の再構築、家族の再構築、という道筋を進んでみたらどうだろう。

老老介護この先不安自分にも要介護連れが何らかの理由で先に逝く。
残った自分は孤独死以外道はない、長年連れ添った相手苦しむ姿見てられなくてそっと口に鼻にタオルを置く。
曲がりなりにも子育てもひと段落が付き労働で酷使した残りの肉体は長くは持たない。所帯持った子供に迷惑は掛けられない。

考えてみるとたくさんの事情がみえてくる。

無縁社会との向き合い方、今までの生活が向上するにつれ核家族化が進むのは否めない。現実を直視し今後孤独死という新しい出来事に対応できるように公共事業も変えていかなくてはならない社会になっているのではないだろうか。アナログからデジタル社会へ移行する現代、アナログの考え方を見直しさまざまな出来事に対応していく行政の作り方も期待したいところだと思う。

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